〔巻頭言〕

すべての人にモビリティを

飯島 節



 社会の中で自立して効果的に移動する能力であるモビリティmobilityは、私たちの自立した社会生活を維持する上で極めて重要である。モビリティが失われると、仕事や日常生活に支障をきたすばかりでなく、自尊心を損なったり、うつ状態に陥ったりする。今日では、このモビリティが自動車によって確保されている場合が多く、特に公共の交通機関が乏しい地方の高齢者や、公共交通機関を利用しにくい障害者にとって、自動車運転は自立した生活を確保するための鍵となっている。
 さて、道路交通の安全性の確保には、人(ドライバー)と車と道路の3つの要素が関係している。わが国では、車に関する技術が優れている一方で、道路環境の整備は欧米に比べはるかに立ち後れており、安全の責任を人にばかり押し付ける傾向がある。
 この立ち後れは、自動車が発明される以前の交通が、欧米では馬車によっていたのに対して、わが国ではもっぱら人の足に頼っていたという、そもそもの出発点の違いによる。欧米では馬車が走っていた街道がそのまま自動車道になったのに対して、わが国では人や駕籠が往来していた街道に無理矢理自動車が割り込んで来たまま今日に至っている。
 米国の事故統計では交通事故死の大半は自動車乗車中に生じているが、わが国では歩行中と自転車乗車中の被害が大半を占めている。これは米国では当たり前の車道と歩道の分離が、わが国では決定的に遅れているからである。交通事故でもっとも痛ましいのは、集団登下校中の児童生徒の列に暴走車が飛び込んで、一度に何人もが死傷するというケースである。しかし、こうした事故はしっかりしたガードレールに守られた歩道が整備されていれば防げるはずのものである。残念ながら、世論は無謀運転の若者を厳罰に処すことばかりに熱中していて、真の安全対策がなおざりにされているようにみえる。
 さて、もう一つの要素である車の技術的進歩は目覚ましい。エアバッグや車体の強化などの乗員保護技術の普及は、近年の交通事故死者の減少に大きく寄与しているはずである。最近は、クッションとして働く跳ね上げ式のボンネットや、歩行者を識別して回避する装置など、歩行者保護技術も数多く開発されている。また、グーグルなど複数の企業が、完全な自動運転装置を開発中だと報道されている。何より、自動車とは内燃機関で動くものであったはずだが、最近のハイブリッドカーでは電機モーターの役割が大きくなり、家電製品のイメージにどんどん近づいている。車の性能がエンジンではなく、電池の良し悪しで語られるようになる時代が来るとは、私自身は夢にも思っていなかった。
 さて、減少したとはいえ、わが国の交通事故による死者は年間5,000人近くに達する。そのような危険が社会で許容されていること自体が不思議であるが、それは自動車が今日の社会にいかに大きな恩恵をもたらしているかを示すものである。当然のことながら障害者も高齢者もこの恩恵に浴する権利がある。しかし、ドライバーとしての個人の能力を適切に評価する方法は確立されておらず、重要な課題となっている。そのような状況下で、障害者や高齢者は運転技能が劣るはずであるという思い込みによって、彼らの権利が侵害されないように注意したい。
 個人の権利と社会の安全とのバランスをどのように考えるかはきわめて難しい課題である。交通環境の整備、安全技術の進歩、それに運転技能の適切な評価によって、すべての人のモビリティが確保されるようになることを願っている。